ダーク ピアニスト
〜練習曲6 ダーク レイン〜

Part 1 / 3


雨が降っていた。どんよりと垂れ込めた灰色の雲は、空いっぱいに広がって、地上を行く人々の心まで重くした。
(空も悲しい事があったのかしら?)
とルビーは恨めしそうに窓から空を見上げた。
雨はもう何日も降り続いて止まない。

もう人形遊びにも飽きてしまった。放り出したままの積み木やイミテーションの果物が暗い幾何学模様の絨毯の上に転がっている。
しかし、ルビーは、その絨毯の色が気に入らなかった。茶とグレーと黒をグチャグチャに混ぜ、筆に含ませたベージュとスモークピンクの絵の具を撒き散らしたような何とも形容し難い色合いをしていたからだ。

壁は灰色。ソファーは濃いグリーンと黒のストライプ。
小さなテーブルと花瓶。しかし、そこに刺さっている花は本物ではない。
あとはクローゼットとそこに入り切らなかった彼の荷物。
ベッドとエスタレーゼがくれたノートパソコン。
その脇に散らばっている何枚かのDVD……。
彼はずっと退屈だった。

部屋に一つしかない窓からは向かいの通りと幾つかの建物、それに、遠くの森が見えたけれど、彼がここに来て以来、全く晴れ間がなかった。ここは、ドイツのいつもの家ではない。ロンドンの小さな隠れ家だった。

あの日以来……。天才少年ピアニストだったルートビッヒ フォン シュレイダーが生きているのではないか、という噂がクラシック界に広がった。しかも、すぐに何者かの手によりその記事の載った雑誌は回収され、間もなくそれを書いた音楽評論家であるカール クリンゲルが事故死した。その事に疑問を感じた一部のマスコミが騒ぎ始め、ルビーが住んでいたドレスデンの街でも彼について噂が囁かれ始めていた。

ルビーは、地元ではピアノが上手な子として評判になっていたし、裏社会でも『ダーク ピアニスト』という名でだんだん知られるようになり、彼自身、精神的にもいろいろ問題を抱えていた。

そこで、ジェラードは、彼をしばらくの間、そこから離す事にしたのだ。具体的にはイギリスの彼が所有している小さな家へ……。取り合えず、ギルフォートと彼をそこに住まわせる事にした。

ギルフォートは『グルド』のロンドン支部で仕事をしながら、大学院で前から興味があった薬学と経済学を学び、夜はプライベートの時間を満喫した。が、ルビーはその間、ずっと部屋に独りぼっちで放置される結果となった。与えられたカリキュラムも訓練も終わってしまえばもうやる事がない。覚えたばかりのパソコンもエスタレーゼが手助けしてくれるのでなければそう長くは続かなかった。

いくらハンディキャップ用のソフト、例えば音声による画面の読み上げや入力が出来たとしても、それが全てではない。文字を認識出来ない彼にとっては補わなければならない事が他にいくらでもあるのだ。しかも、一度エラーになってしまったら、ほとんど彼には対処出来ず、ギルフォートが帰って来るのを待つしかない。パソコンは、彼にとってはまだまだ扱い難いおもちゃだった。

そこで今度は人形やままごとセットや積み木を並べる。階段やベッドから飛び降りたり、駆け回ったり大声で歌ったり、ダンスしたりもしてみた。テレビもラジオもDVDも、彼にとっては一瞬の喜びでしかなかった。

「つまらないよ」
と彼は言った。
「つまらない……」
しゃがみ込んでギュッとウサギのぬいぐるみを抱き締めて俯く。雨と空調のゴーッと唸るモーター音だけが寂しい部屋に響いている。
「お腹が空いた……」
暗闇の中でポツンと呟く。まだ日暮れには時間があったが、雨雲のせいで部屋の中は暗かった。しかし、彼は電気を点けようともせず、立ち上がろうともしなかった。階下に行けば冷蔵庫もあるし、電話を掛ければ宅配ピザも頼める。しかし、彼はそうしなかった。

「どうして……?」
大事な何かを思い出せない……そんな気がした。寂しくて、苦しくて、ひどく痛い……。とても悲しいのに涙が出ない。誰かの温もりを感じたくて、けれど、ここには誰も存在しなくて……だから、代わりにぬいぐるみを抱いた。そして、その頬をぬいぐるみに押し付ける。それは、フカフカの毛布のように暖かく、やさしい香りがした。彼はそうしているうちにいつしか浅い眠りに落ちた。


「雨……」
目を覚ますと、そこは、暗く冷たいコンクリートの上だった。
(ここは、一体何処なんだろう?)
頭がひどくぼんやりとして状況がまるで掴めない。冷たい雨が吹き込んで顔や手に当たる。彼はゆっくりと上体を起こそうとした。
「ウウッ……!」
背中に激痛を感じた。腕や腰や頭も痛い。冷えた身体の表面を生暖かい液体が伝わるのを感じる。

「痛い……!」
彼はそっとその痛みに触れた。洋服の下で、それは確かに脈打ち、震えていた。
(どうして? ここはこんなに暗いの? どうして、ぼくは独りなの? どうして……!)
「母様……」
泣きそうな声で母を呼んだ。と、その時。突然の稲光がサッと部屋の中を照らした。一瞬、浮かび上がったそれは、それまで彼が見た事のない場所だった。打ちっ放しのコンクリートはあちこち罅割れて埃だらけ。大きな木箱やダンボールが積まれた薄汚れた狭い部屋だった。

「怖い……!」
頭の上で鳴る雷鳴に彼は怯え、両手で耳を塞いだ。白く鋭い稲光りは目の前にある全ての物を怪物に変えてしまいそうで彼は固く目を瞑った。が、それでも、怪物は心に侵入して来る。光る度に、目の前が赤く染まり、光は白い花びらとなって彼の目の前で散った。稲妻は銀の刃……。その刃が彼と彼の母親を無残に引き裂いた。そして、母は……。
「やめろ――っ!!」
けれどその叫びは轟くような雷鳴が砕いて地の底へ葬った。
「どうして……?」
頭の中に閃いた画像……。血と青白い母の横顔……。開かない瞼と冷たい手……。彼は目の前にある全ての物が信じられずにいた。
(これはウソだ。きっとぼくは怖い夢を見てるんだ。そう。これは夢だ。こんな事……母様が死ぬなんて、そんな酷い事がある筈ない。これはみんな、本当じゃない。本当の事である筈がないんだ。目覚めなきゃ……。早く目を覚まさなきゃ……。きっと母様が心配してる。早く家へ帰るんだ。家へ……ぼくの部屋の温かいベッドの上へ……)

けれど、彼は帰れずにいた。そして、眠る事も出来なかった。いつしか雷は収まって雨も上がり、闇の世界が広がった。

傷が痛んだ。背中に付いた幾つもの傷が……。
そして、手が汚れていた。
それに、洋服のあちこちがゴワゴワと硬くなっている。

それらが何なのか理解するのに時間が掛かった。
が、やがて、空が薄っすらと明るくなって来ると、高い鉄格子のはまった小さな窓から明かりが差し込んで来た。
そこは何処かの地下室らしく、倉庫のように箱や棚がたくさん並んでいた。向かい側には扉があった。そして、右の奥には、更に下へ降りる階段がある。彼は少しほっとした。あの扉を開ければ外に出られる。

きっとここは、まだ彼の知らなかった倉庫か何かなのだろう。
シュレイダー家は敷地も広く、部屋数も多かった。
他に使用人が使っている別棟もあったし、当然、彼がまだ知らない部屋というのもたくさんあった。幾つかの地下室は知っていたけれど、いろいろな物が置いてあって危険だからといつも追い出されてしまう。多分、ここもそういった物の一つなのだろう。

何しろ雑多な物が危なっかしいくらい乱雑に置かれ、もう随分長く使われていなかったのかそれらの箱の上には埃が積もっていた。それでも、そこが自分の家の敷地にある建物なのだと彼は信じて疑わなかった。
たくさんある部屋の中には、久しく使われていない部屋もあって、時々扉を開け放して使用人が掃除しているのを見た事がある。この部屋もきっとそういう場所にちがいない。もしかして、自分は遊んでいるうちにこの場所を見つけて入り込み、うっかり眠ってしまったのかもしれない。
(きっとそうだ)
彼は起き上がると真っ直ぐそこに行くと扉の取っ手を掴んだ。そして、思い切り引く。けれど扉はビクともしない。
「開かない……」

それから、彼は少し考えて、今度は外側へ押してみた。しかし、それも同じ事だった。外側からガッチリと錠が掛けられているのだ。
「どうして……?」
彼はガチャガチャと取っ手を動かし、押したり引いたりを繰り返した。それでも開かないと知ると今度は拳で叩いたり身体で押してみたり、足で蹴ったりもした。
「どうして……?」
彼は泣きそうな顔でドンドン叩いた。
「開けて! 父様! ここから出して! ぼくだよ! ルートビッヒだよ! ここから出して! お願い! 母様……! マリアンテ! ぼくはここだよ! 誰か……! お願い! お願い……」
けれど、彼の叫びは誰の耳にも届かなかった。いくら泣いても叫んでも誰も来てはくれなかったのだ。

「お願い……出して……」
伸ばした手で思い切り叩く。その時、初めて彼は自分の手が赤く汚れている事に気がついた。見れば両手にベッタリと血が付いている。それは服や髪にもこびり付いていた。
「血がこんなに……」
一瞬、灰色の床が鮮血に染まる。
そして、その中に沈むバラの悲しみ……。

「いやあぁ――っ!!!」
彼は絶叫し、叫び続けた。これは、母の体内から流れ出た血なのだ。父がナイフを振るい、自分を庇った母の胸にそれは刺さった。鮮血に溺れる母の胸に縋って泣いたのは自分……。
父は、そんな彼にまで刃物を振るった。
「母様……」
呆けたように彼はそこにしゃがみ込んだまま動けずにいた。そして、時が過ぎた。それは、彼にとっては瞬きする程の時間だった筈なのに、小さな窓からはもう赤い夕日が差し込んでいた。
あまりに泣いたせいだろうか? それとも、その日の夕日が特別赤かったのか、全ての物が血塗られて見えた。

「母様……これは母様の血だ」
そう言って彼は赤く染まったその手を見つめた。それから、血の付いたその指先に唇を当てる。
「ぼくを愛してくれた母様の……」
それから、彼はじっとそれを愛しそうに見つめ、そっと舐める。それから、うっとりとその指を吸った。外は再び暗くなり、月が出ていた。その光は遠い稲光りのようだった。けれど、彼はもう恐れない。
「だって、ぼくの中には母様がいるもの……」
かざした手から赤いそれが伝わった。
そして、その指先が静かに『月光』を奏でる。

「ぼく達、もうずっといっしょだよ。ぼくの中に母様がいる……そうでしょう? そうして、母様はぼくだけのものになったんだ。もう、誰にも渡さない! 悪い父様には、絶対に渡さないんだ……!」
そうして彼はその手をそっと自分の心臓に当てた。鼓動は母の温もりと重なって、彼に安らぎを与えた。
「だから、ぼく、もう泣かないんだ……」
そうして、彼は子守唄を歌った。
昔、ゆりかごで聞いたやさしい母のメロディーを……。


「おい、起きろ。風邪を引くぞ」
揺すられて目を覚ますと銀髪の男が見下ろしていた。
「やあ、ギル、お帰り……」
ルビーは眠そうに目をこすりながら言った。
「夕食のパンとチーズを買って来た。さっさとここを片付けて来い」
「片付けるの? どうせまたすぐに散らかるよ」
「おまえが散らかさなければ、ずっときれいなままでいられるぞ」
「いやだよ。僕、まだ遊びたいもの」
と不満そうに口を尖らせる。
「遊び……か」
ギルは、呟くように言った。
「何でそういう言い方するのさ? 僕、おかしい事言った?」
「いや……」
ギルはそれだけ言うと階下へ降りて行った。

「アインツ、ツバイ、ドライ……」
ルビーは散らばっているりんごを数えて籠に入れる。
「青いりんごが5個と赤いりんごが6個、バナナが3本に葡萄とイチゴとサクランボ、それに、えーと卵が4個……あれ? 一つ足りないな」
彼はあちこち見回す。
「おーい、卵ちゃん、何処に行ったの? 出ておいで」
けれど、それは何処にもなかった。
「また、一つ消えちゃった……。どうしてだろ? 僕が持っているものは、みんな、この手をすり抜けて消えてしまう……大切にしているもの程なくなってしまう……。どうして? 幾つの夢が通り過ぎて行った? 一体、何人の人がこの手をすり抜けて、僕を置き去りにした? 何人の愛する人を失って……!」

ルビーはさっき見た夢の光景を思い出して胸が詰まった。
「どうしてあんな夢……! 忘れていたのに……忘れようと努力して来たのに……どうして……!」
彼は持っていた籠を取り落とし、せっかく集めたそれらがまたバラバラとカーペットの上を転がった。そして、足元に落ちた赤いりんごを一つ拾うとそれを強く握った。
「どうして……?」
封印したかった10才の時の記憶……。生き延びた事さえ奇跡だった地下での監禁生活……。水も食料も不足して、飢えと寒さに震えていたあの頃……。母を失い、愛を失い、夢も未来も奪われて暗闇で泣いていた。熱が出て、死に掛けて、神にさえ見捨てられたと思って泣いた。が、やがて、その涙さえ出なくなり、心が枯れて音楽も途切れた……。
何もかもが闇の中に放置され、自分も死ぬのだと思った。

でも、死ぬのは恐ろしくなかった。
死ねば母の元に行ける。そうしたら、きっと何もかも辛くなくなる。生きる為の痛みには、もう耐えられそうになかった。だから、そうしたかったのに、それを、また、あの父が台無しにした。

どれくらいの時間が流れたのか彼は知らない。けれど、その髪は背中よりも長く伸び、体重も減り、ほとんど限界に達していた。もう一人では歩けない程に彼は弱っていた。そんな彼に父親は容赦なく悪魔の銃口を向けたのだ。悪夢の中で、また別の悪夢が始まった。燃え尽きようとしていた命の炎が彼を生かす為に爆発し、鮮烈な光を宙に放った。
極限の中で目覚めた力。だが、それは彼に幸福を約束してくれるものではなかった。

そして、彼は地下室という牢から解放され、代わりに病院という牢に閉じ込められた。
そこの暮らしもまた酷かった。自由もなく、拘束され、医師や看護士達の暴力や暴言に耐えなければならなかったからだ。
それは、彼にとって独りでいるより辛かった。
いや、それでも今思うとこちらも悪口雑言言いたい放題言えたのだし、それに対しての相手の反応も返って来るのだから、独りぼっちの孤独よりはましだったと言えるのかもしれない……。それが、たとえ、暴力だったとしても、直接ぶつかり合う事が出来たのだから……。
だから、病院では、どんなに酷い事をされても、あの力を使わなかった。

(そう……。僕がその気なら、あの病院の人間は誰一人生きていなかったろう)
それ程、病院の中は荒れていた。精神科とは名ばかりでまるで魂が抜けたように心がなかった。彼より大きい子も、小さい子も、みんな、そこで死んだ。けれど、そこでは人が死んでも誰も泣いてくれる人がいなかった。ただ、看護師が淡々と死出の支度をしてくれるだけで……。

家の者さえ迎えに来ない者さえいた。神父様が来て、形だけのお祈りをして、また、すぐに元通りの生活が始まる。誰もその子の死を悼んだりしない。空っぽになってしまったベッドには、すぐにまた次の子がやって来て、そして、死んで行く……。自分もそんな風になるのかと思ってゾッとした。誰にも看取られず、愛してもらえず、物のように扱われ、忘れられて行く……。それが、あまりに恐ろしくて彼は泣いた。
「もう、誰も僕の事なんか覚えていないのかもしれない……」
忘れられてしまう……。それが、彼の悲しみの全てだった。

(本当の僕は、まだここにいて、死んでなんかいないのに、みんな、僕の事忘れてる……。だから、僕を病院に迎えに来てくれる人もなく、僕は独りぼっちで過ごさなければならなかった……。
病院で死んで行った子供達のように、きっと僕も捨てられてしまったんだ。僕が死んでも誰も悲しんではくれない……。
お墓に会いに来てくれる人もいなくて、忘れられて……まるで、はじめからいなかった子のように……。
なら、どうして生まれて来たんだろ?
初めからいないのと同じなら、どうして……?
意味があったのかな? 生まれて来た意味が……)


ルビーは再び籠に果物を入れ始めた。
「アインツ、ツバイ……」
数が数えられるようになったのは、つい最近の事だった。おもちゃで遊ぶ時にはいつもそうするようにとギルに言われた。エスタレーゼも手伝ってくれて、数え切れないくらい練習した。だから、今では、必ずカウントするように条件付けられている。
「やっぱり一つ足りないや」
籠をソファーの上に置くと、ふとベッドカバーの一部が盛り上がっている事に気がついた。めくってみると、そこにポツンと置き去りにされた卵があった。
「少しだけ温かい……」
ルビーはそっと頬に当てて言った。そして、ふと思いついて彼はその卵を懐に入れると、しっかりと両手で覆ってその場にしゃがみ込んだ。と、そこへギルがやって来て言った。

「何をしている?」
ルビーは首だけチョコンと上げて答える。
「あっためてるの」
「何を?」
「卵……」
ギルは怪訝そうな顔をした。
「卵だって?」
「うん。だって生まれるかもしれないから……」
と真面目に言った。
「生まれる? 何が?」
「僕……」
「何を言ってる? おまえなら、もう生まれてるじゃないか」
「うん。でも、もう一度生まれてやり直したいの」
「もう一度……?」

「エジソンも卵をあたためたんだって……。エレーゼが本を読んでくれたの」
ギルはスッとルビーが抱えていた卵を取った。
「あー、ダメだよ! 冷めたら死んじゃう!」
とルビーが手を伸ばして来たが、彼はそれを手で摘んで言った。
「死なないさ。これは本物じゃない。作り物のおもちゃなんだ。いくら温めても何も生まれない」
「生まれるよ! 僕が生まれるんだ! そして、やり直すんだよ、何もかも……。やり直したいんだ……。そうしたら、母様も死ななくていいでしょ? そうしたら、僕はちゃんとお勉強していい子になるんだ。ピアノも練習して、僕と会わなければ死なずに済んだ人達も、きっと死なずに済むでしょう? 会わなければ……」
「で? おれとも会わなければよかったのか?」
「え……?」
ルビーは驚いてその顔を見つめる。

「おれと会わなければ人を殺さずに済んだのか?」
「それは……」
ルビーは返答に詰まった。
「あなたは、他にもいろいろ教えてくれた」
「だが、殺しの方法を教えたのはおれだ」
「そうだね……。でも、わかんないよ。何が一体良い事で、何が本当は悪い事なのかなんて……多分、それは、誰にもわからない……」
「だが、ハッキリとわかっている事だってあるさ」
それは何かとルビーが頭をもたげた。
「この卵からは何も生まれないって事が……」
「生まれないの?」
「ああ……」
「じゃあ、死んでるの?」
「いいや。生きてはいないが死んでもない」
「どういう事?」
ルビーが不思議そうに訊いた。

「これから、おまえが作り出す未来がこの卵の未来を形作る。おまえは、もう既に生まれてここにいるのだから、過去を変える事は出来ない。そして、やり直す事も出来はしないんだ、人間にはな。
だが、おまえは過去を乗り越えて来た。おまえ自身が作って来たレールがここまで延びて来たんだ。そのレールを繋げたいのはどっちの未来だ? 光か? 闇か? それは、おまえ自身で決めろ」
「でも……」
「おまえには、その力がある。そして、選ぶ権利が……」
「権利?」
「そう。自由と言ってもいい。その先に何があるのか、誰が待っていてくれるのかはわからないけどな」
「僕を待っていてくれる人がいるの?」
「それが誰かはわからんけどな」
「でも、いるんだ……」
一瞬、桜の下を走る馬車の陰影が浮かんだ。
「待っていて……」
彼は微笑んだ。
(あの人が待っていてくれる……きっと……)

「さあ、片付けが終わったんなら早く来い。せっかく温めたスープが冷めてしまう」
「わかった」
と言ってルビーはギルフォートよりも早く階段を駆け下りた。
「もう一度……か。それが出来たら……」
ギルは主のいなくなってしまった部屋の電気を消すと、闇に向かって呟いた。
「ギル! 早くおいでよ! スープが冷めてしまうよ」
下からルビーが叫んでいる。ギルは苦笑すると素早く階段を駆け下りた。


「グーテンアペティート!」
夕食は、パンにチーズ、それに焼きハムにスープ。ワインはビンテージ。それで、ルビーはご機嫌だった。
「これ、すごく美味しい!」
とグラスにお代わりを注ぐ。
「おい。食べる物もしっかり取らないと身体が持たないぞ」
とパンの上にハムとチーズを乗せて差し出す。
「僕、もうお腹いっぱいだよ」
と笑う。
「まだ、たった1枚しか食べてないじゃないか」
「いいんだよ。ギルが食べて」
キャンドルのやわらかい光の中で、グラスに映ったルビーの瞳が神秘的に輝く。
「そうか……」
ギルはそれを自分の皿に乗せると同じ様にワインを注ぐ。そして、それを一気に飲み干すと言った。

「後悔しているのか?」
「わかんない」
「カール クリンゲルの事を気にしているのか?」
「……」
「あれは事故だ。おまえの責任じゃない」
「でも……」
「あの件に『グルド』は関与していない。少なくとも、おれは何も知らされていない」
「でも……」
ルビーは手の中でグラスを弄んだ。液体が揺れてそこに映った炎が歪む。
「外は、まだ雨が降ってる?」
「ああ。だが、大した降りじゃない。ペニーレインだ」
「ペニーレイン……それでも、僕は濡れると風邪引いちゃうけどね」
「そうだな……」
と言って、ギルフォートは揺れる蝋燭の火を見つめた。

「本当に、よく似ている……」
「似ている? 誰に?」
「ミヒャエル……。おれの弟だ」
「ギルには兄弟がいたの?」
「ああ……もう大分前に亡くなったがな」
「死んだの? どうして? 病気だったの?」
「いや……。おれが殺したんだ」
「ギル……!」
「そう。おれが殺したんだ。だから、おまえも寝首をかかれないように気をつけろ。どんなに足掻いても、もう元には戻れないんだ。先へ進むしか道は残されていない。自分が信じたただ一つの道だ……諦めて進むんだな」
そう言うと、彼は席を立った。
「ギル……」


その晩、珍しくギルフォートは家にいた。隣室でずっと書き物をしている。雨は相変わらずしとしと降り続いていた。ルビーは眠れずにベッドの上で半身を起こしていた。
――おれが殺したんだ
(ギルはどうしてあんな事を言ったんだろう?)
――おまえも寝首をかかれないように気をつけろ
(一体、どういうつもりで……?)

ギルの事は好きだった。確かに、彼は厳しい事ばかり要求する上に、愛想もなく、端整で美しい顔立ちは逆に冷たい印象を与えた。
けれど、その下に隠された優しさをルビーは知っている。
彼は、厳しい反面、決して人を見下したり、馬鹿にしたりするような事はしない。たとえ、どんなに時間が掛かっても彼は根気よく待っていてくれた。何処が難しいのか、何を間違えたのか、正確に分析し、適切なアドバイスや指導をした。そうして、ルビーが理解し、完璧に覚えるまで徹底的に仕込んだ。他の人間ならとうに投げ出していただろうに、ギルフォートは、彼だけは諦めなかった。組織に来た頃、何一つ出来なかったルビーをここまで育てて来たのもみんなギルフォートの功績だった。

ただピアノが弾けて見た目が可愛い『お人形ちゃん』だった彼を組織の中で使える道具として調教したと言ってもいい。
ルビーは、組織の中では異端であり、特殊な存在だった。いつもジェラードやギルフォートというトップの側に付いている。一部の者は単にボスに気に入られた小姓くらいにしか思っていなかった。だが、それを不満に思っている者達もいた。現に、ギルやジェラードが不在の時、ルビーは何度も仲間から暴力を受けた。
それが原因で実際、死に掛けた事もあったくらいだ。が、それでもルビーが組織の為に働いていたのは、ギルフォートの為でもあった。
(そう……。あなたに出会うまで、僕は何一つ満足に出来なかった。でも……)
ルビーは籠の中の果物を数えて空中に放った。そして、それらを指先から発射された風の弾丸で撃つ。
「アインツ、ツバイ、ドライ……全部でアイノンツバンツィッヒ(21)! オールヒット!」
正確な射撃と反射神経。

――生き延びるんだ。何があろうと……それには、正確な射撃と敵の数の把握だ。それを怠ったら命取りだ。常に心の中でカウントしろ。いいな?

それから、ルビーはどんな時にもどんな物でも数を数えるようになった。始めのうちは何度も間違え、失敗を繰り返したが、ギルは怒ったりせず、違う時にはただ間違いを指摘した。実は、この単純な作業が体力づくりと並んで一番時間が掛かった。
少し運動をしたくらいではすぐに体力がつかないのと同じように、文字や数についての認識が持てないルビーにとって、それが最も難問だったのだ。が、それでも、ギルは反復を繰り返した。遊びの中にも生活の中にもそれを取り入れる事で、徐々に馴染ませる事に成功した。
元々、ルビーには赤ん坊の頃から選任のリハビリ講師や科目毎の専門指導員が付いていた。走る時のフォームも転んだ時の受身も、みんな、その頃会得したものだった。

――道理でな。それがなければ生き延びて来れなかったろう。金持ちだった両親に感謝するんだな

言葉は冷たかったが、その目はいつもより優しい感じがした。

――何があっても生き延びろ

それは、一体どういう意味なのか? 生き延びて……そしたら、その先には、一体何があるのか? と訊いてみた事がある。

――光だ……

(光……前にもそう言ってくれた人がいた)

それは一番辛かった時。地下室で死に掛けていたところを救われ、病院でまた、死に掛けていた頃の事だった。突然、その人は現れたのだ。
彼の名はルカス シュミッツ。彼は、あちこちの施設や病院を慰問しているというピアニストだった。そして、その小児精神科の病院でルビーと会った。荒んでいたルビーの心に再び音楽の火を灯したのは、他でもないシュミッツだった。彼はルビーの為にグランドピアノを寄付した。そして、病院に来てレッスンをしてくれた。元々ピアノの才能があったルビーは、あっと言う間に感覚を取り戻した。それを誰よりも喜んでくれたのもまたシュミッツだった。本当に優しい人だった。
しかし、彼は病気だったのだ。もう、彼の命の火はいくらもなかった。そんな中で彼は最後までルビーの将来を思ってくれた。

――ルビー。君はきっと光になれる……

ルビーという名を与えてくれたのも彼だった。

――ルビー……情熱と命の美しい輝きを持つ宝石……ルートビッヒ、君は私の……いいや、すべての人にとっての宝物なんだ。ルビー、汚れなき音楽の天使……ルビー……愛しき者よ……ルビー……

「シュミッツ先生……!」

――君は光になれるよ……

「いいえ。先生……僕はなれそうもありません……僕は……!」
涙が伝った。
「ああ、ピアノが弾きたい……」
この家には、生活に必要な物なら何でも揃っていたが、ルビーにとって一番必要なピアノがなかった。

「そうだ!」
突然、彼は閃いてベッドから飛び起きた。そして、テーブルの上のパソコンを起動する。
「えーと、お買い物をする時は……」
彼はエスタレーゼが作ってくれたファイルの中から音楽という項目を開いた。
「あった! グランドピアノ……と」
人工音声が読み上げる声を頼りにそれを見つけると彼はその単語をコピーした。そして、ショッピングの項目に移動すると検索窓にそれを貼り付け、ボタンを押した。そして、並んでいる商品の中から適当な物を選ぶとカートに入れ、手続きをした。エスタレーゼが会員登録を済ませておいてくれたので、それは簡単だった。そして、ありがとうございました、と音声が読み上げるのを聞くと彼は満足した。

「買えちゃった。やっぱりパソコンって便利だね。家にいたってお買い物が出来るんだもの」
ルビーは覚えたばかりのそれが上手く行った事がうれしくて、何か他に買う物はないかと探した。
「そうだ! 卵」
ルビーは、またファイルを覗いた。今度は食べ物という項目を探し、コピーした。
「出来た! これなら、僕にもお買い物のお手伝いが出来るね。いつもギルは忙しくて大変だもの」
きっと喜んでくれるだろうと想像してルビーはクスクスと笑った。いつの間にか雨も上がり、空に月が出ている。
「とても楽しみ。早く来ないかな?」
その日、彼はなかなか眠れずにいた。